2026-03-14 04:09 公開中

守られて生きてきたという真実――まず自分の親になることから始まる成熟

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守られて生きてきたという真実――まず自分の親になることから始まる成熟のアイキャッチ画像
人は、自分ひとりの力で生きてきたのではありません。

赤ん坊の頃はもちろん、子どもの頃も、大人になってからでさえ、実際には幾重もの守りの中で生きています。事故に遭わずに済んだこと、危険なものを避けられたこと、病気や衰弱から立ち直れたこと、心が完全には壊れずに済んだこと。その一つひとつは、決して当たり前ではありません。子どもは一人では生きられません。そして大人もまた、完全に一人で生きているわけではありません。誰かの配慮、環境、偶然、社会、見えない支え、そうした幾重もの保護の中で、ようやく今日まで生き延びてきたのです。

このことが本当にわかってくると、「自分は自分だけの力でここまで来た」という硬い思い込みは、少しずつほどけていきます。そして、「生きてこられた」という事実そのものへの感謝が、ただの観念ではなく、実感として胸に入ってくるようになります。

そのうえで、本当に重要なのは、まず自分の親になることです。

自分の安全を守ること。
自分の健康を守ること。
自分を危険から遠ざけること。
無理をさせすぎないこと。
傷ついたときに放置しないこと。
必要な休息、栄養、生活、境界線を、自分にきちんと与えること。

これは単なる自己管理ではありません。心理学的に言えば、「内的養育」と呼べるものです。幼少期に十分に与えられなかった保護機能を、大人になった自分が、今度は自分の内側に作り直していく営みです。

そして、子どもがいるなら本当の親になることです。
ペットがいるなら本当の飼い主になることです。

つまり、自分より弱い存在に対して、安心、安全、健康を現実に守る責任を引き受けることです。ここで人は初めて、「守られる側」と「守る側」の両方を、頭ではなく体験として理解し始めます。

これは、心理学的に見ても”非常に大きな転換”です。

人は、十分に守られた経験が薄いと、「保護とは何か」を実感として持ちにくいことがあります。そのため、自分にも他者にも、適切なケアをしにくくなることがあります。しかし、自分を守る努力を重ね、子どもや動物や大切な誰かを守ろうとして、そこに本当に成果が出るところまでいくと、初めて見えてくることがあります。

人が無事に生きるというのは、こんなにも多くのことに気を配らなければ成り立たないのだ、と。
人は放っておけば簡単に傷つき、壊れ、命さえ危うくなるのだ、と。

その現実がわかるほど、かつて自分もまた、どこかで守られていたのだということの重みが、骨身にしみてわかるようになります。

ここに生まれてくるのが、深い感謝です。

しかもそれは、薄っぺらいきれいごとではありません。
現実を見ない感謝でもありません。

ひどいこともあった。
足りなかったものもあった。
傷ついたこともあった。
壊されたものもあった。

それでも、ゼロではなかった。
完璧な愛ではなかったとしても、確かに受け取ったものもあった。

そういう、現実を薄めない感謝です。

だからこそ、僕が何度も書いてきた「3歳まで親の愛情をもらえただけでも十分感謝だ」という言葉には、とても深い意味があります。

これは、親の問題を美化することではありません。何もかも許して忘れろということでもありません。足りなかったものがあるなら、それは足りなかったのです。傷ついたなら、傷ついたのです。その事実は、その事実として直視しなければなりません。

けれど同時に、もし人生の最初期に少しでも温もりがあったなら、少しでも守られた時間があったなら、抱かれたこと、あやされたこと、命をつなぐ世話を受けたことがあったなら、それは人間存在の土台として、計り知れない意味を持っています。僕はずっと過去を振り返り、その温もりを探し続けました。嘘ではなく、本当のことを探し続けました。そして見つけました。

小さい頃の記憶の中に、確かに温かさがありました。
そのことを歌詞にして、Suno AIに歌ってもらった曲が下記です。

記憶の中の贈り物 (Ver.1)
https://linkco.re/Y6PdcDPP

歌詞:
https://linkco.re/Y6PdcDPP/songs/3149778/lyrics

僕は、3歳頃までの親の愛情で十分すぎるくらいもらっていたんだと気づきました。


人の心は、最初から一人で育つのではありません。守られ、受け止められ、世話をされることによって、少しずつ「生きていい」「ここにいていい」という感覚の土台を作っていきます。たとえそれが完全でなくても、人生の初期に与えられたわずかな保護が、その人の中の「生きる芯」を支えていることがあります。

哲学的に言えば、ここには「存在は贈与である」という真実があります。

人はまず、与えられて生き始める存在です。
自力で生まれたのではありません。
自力で育ったのでもありません。

呼吸の仕方も、言葉も、食べ方も、危険を避ける術も、多くは他者や環境から与えられ、支えられながら身につけてきたものです。

この視点に立つと、人生は「奪い合い」や「自己証明」の場である前に、まず「受け取り、受け渡していく」場として見えてきます。

守られてきたから、生きている。
生きているから、今度は守る側になれる。
守る側になって初めて、守られてきたことが本当にわかる。

これは、人が成熟していくうえでの、深い循環です。

そして、この循環の中で、人は自分の過去を新しく理解し直すことになります。

かつては「全然愛されなかった」としか見えなかった記憶の中に、あとになって小さな保護の断片を見いだすことがあります。逆に、「十分に愛されていた」と思い込んでいた人が、実は守られていなかった部分に気づくこともあります。

大切なのは、美化することではありません。
断罪だけにとどまることでもありません。
真実に近づくことです。

真実に近づくほど、人は恨みだけでも、感謝だけでもない、もっと大きな理解へと入っていけます。そこには、幼い白黒の判断を超えた、人間理解の深まりがあります。

ここで本当に伝えたいことは、単に「親に感謝しましょう」ということではありません。

まず自分が、自分の命を守れる人間になることです。
本当に安心安全をつくれる人間になることです。
健康を守る努力を、観念ではなく、現実に成果の出る形で積み上げることです。

その地点まで行って初めて、生命がどれほど壊れやすいものか、守るということがどれほど大きな仕事かがわかります。そしてそのとき初めて、自分もまた、何かに守られて生き延びてきたのだということが、理屈ではなく、体験としてわかるのです。

そこで生まれる感謝は、幼稚な依存ではありません。
現実を知らない甘い理想化でもありません。
それは、成熟した感謝です。

そして、その成熟した感謝は、人を受け身にはしません。むしろ逆です。

守られてきたのだから、今度は自分が守る。
受け取ってきたのだから、今度は自分が受け渡す。

そのような責任感へと変わっていきます。

それは罪悪感ではありません。
義務感だけでもありません。
生命のリレーに参加する感覚です。

本当に自分を守ろうとした人にしか見えない景色があります。
本当に誰かを守ろうとした人にしかわからない重みがあります。

そこまで来て初めて、生きているということが、当たり前ではなく恩恵として見えてきます。

人は一人で生きてきたのではありません。
だからこそ、まず自分の親になることです。
そして、自分が守るべき存在がいるなら、本当の親になること、本当の飼い主になることです。

安心を与えること。
安全を守ること。
健康を守ること。
現実に成果を上げること。

そこまでやって初めて、自分が今日まで生きているのは、自分が強かったからだけではなく、誰かが、何かが、自分を守ってくれていたからなのだと、本当の意味でわかるようになります。そうでなければ、とっくに命を落としていてもおかしくなかった出来事は、人生の中にいくらでもあったはずです。

その真実がわかってきたとき、人はようやく、人生の見え方そのものが変わります。

守られてきたことへの感謝。
そして、これからは自分が守る側として生きるという覚悟。

その両方を引き受けたとき、人はただ年齢を重ねた大人ではなく、本当の意味で成熟した人間になっていくのです。

この文章の中でお伝えしたことは、僕自身がサヨナラ・モンスターに取り組む中で起きた変化の一つでもあります。

もちろん、こうした見方や実感を無理に持とうとする必要はありませんし、誰かに押しつけるものでもありません。心の変化にはそれぞれの段階があり、見えてくることも、人によって違います。けれど、自分を守ること、そして守るということの重みを深く理解していく中で、自分もまた守られて生きてきたのだとわかることは、とても大きな心理的成長の転換点になり得ます。

もしサヨナラ・モンスターを通して心の深いところに向き合っていくなら、このような地点を一つの方向として見つめてみるのもよいかもしれません。そこには、単なる知識や理解を超えた、人生の見え方そのものが変わっていくような深い変化がある可能性があります。

僕は、いつか迎える死の前に、この大切なことに気づけて本当によかったと思っています。

ありがとう。
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